2011年9月18日日曜日

悲しみを感じる強さ、涙を流す強さ

倦怠感を無視して突っ走ったら痛い目に

今日は1日寝込んでいました。
木曜日にサンドスタチンLARの投薬があってから、ずっと倦怠感を我慢し、ごまかしながらやっていたら、今日になって体が悲鳴を上げてしまいました。実は昨日、ものすごくめまいがする、と思っていたのですが、必要に駆られ、ちょっとばかり精力的(?)に活動してしまったのが良くなかったようです。今日はさらにめまいが酷く、日中はずっと寝ていました。夕方になってからベッドから這い出て、夕礼拝へ。讃美歌を歌っている時、とても苦しくて駄目でした。
ε=(-ω―;)フーッ

今夕の礼拝で

今日のお説教の内容は、「悲しい時は悲しみを感じる強さ、涙を流す強さを持ちましょう」といったもの。グリーフ・ワーク(喪の作業)のお話の大切さなどをお話されました。聞きながら目がウルウルしてしまいました。

実は木曜日、心身医療の診察の際、主治医が難病と共に生きることに関して何かとても大切なことをおっしゃったのですが、なぜか私は涙が出そうになってしまい、「そんな強くなれません」と途中で聞くのをやめてしまったんです。なので、当然覚えていないのですが、何やら「辛い病気を持っているけど、それを受け入れて精一杯生きていく」みたいなことをおっしゃっていたように思います(結局、少しは聞いていた…)。

いつもは「精一杯生きていく」のほうには意識を向けますが、「辛い病気を受け入れる」の部分は無視してしまうことが多いです。「考えても何も変わらない。」「考えても悲しいだけ。悲しんだり、泣いたりするのは面倒くさい。」という気持ちが壁になってしまい、どうしても病気の辛さを一人称で考えることができないでいます。自分のことでも、他人のことのように考えたり話したりすることならできます。病気という事実と自分の心の間に距離ができるからです。このように、私は自分のことも他人事のように考えてしまうことがあります。感情や気持ちが、まるで自分のものではないかのように感じるのです。

ジョン・レノンの How? の中に

そんな中、昨日からジョン・レノンの How? という歌の歌詞が心に引っかかっております。
How can I have feeling when I don't know if it's a feeling?
How can I feel something if I just don't know how to feel?
How can I have feelings when my feelings have always been denied?
Oh no, oh no
それが感情なんだ、ということが分からない時、どうやったら感情というものを抱くことができるのだろう?
何かを感じることができないとしたら、どうやったら何かを感じることができるのだろう?
気持ちをいつも否定される時、どうやったら気持ちを抱くことができるのだろう?
オーノー、なんということだ。
耳にこの歌詞が飛び込んで来た時、「これは私のことだわ…」と雷を落とされた心地がしました。自分の感情がわからない、感情を感じとることができない、自分の感情ですら否定してしまう…。なんだか心が麻痺したような感覚にとらわれることが実は結構あります。まさに Oh no! です。

「喪の作業」をしてこなかった

辛いことを思い出そうとすると、映像としての思い出はあるのですが、そこに気持ちは存在しないんです。いえ、正しくいうと、気持ちは存在するのですが、それに触れることができないのです。 それは真に触れられないから、というよりも私の心が触れることを拒絶しているんですよね。「あんなものに触ったら、辛い気持ちになってしまうし、泣いてしまうかもしれない。そういうのって面倒なのよね。」と考えてしまいます。

悲しみに触れるのは確かに膨大な心的エネルギーを使うように感じます。だから面倒なのですが、それを疎かにしていては、いつまでたってもその思いは浄化されずに心にとどまってしまいます。私の場合、実際そうなんだと思います。

たとえば、異国の地で先端巨大症と診断され、怖い手術をうけ、髄液漏に苦しみ、ということがありましたが、その苦しみ・悲しみを吐き出す時間と場所をきちんと設けないで今まで来てしまいました。無理して「ポジティブに笑顔笑顔」を演じ続けた結果、あまりにも重過ぎる代償を背負ってしまいました。同様のことが精神科領域のことでも起こっているように思います。

心も体も同じ

冒頭に戻りますが、今回の投薬後、私は我慢・ごまかしによって2日間どうにかやり過ごしましたが、3日後にしわ寄せがきてしまいました。体が動かなくなって寝ているだけになってしまったのです。これは、身体の話ですが、実際には心も同じだと思うのです。

悲しみなどの辛い感情があっても我慢し、ごまかすことでしばらくはやり過ごせるでしょう。しかし、いずれは心が悲鳴を上げてしまいます。それは様々な形をとって現れます。私の場合、抑うつ状態になったり、感情を感じられなくなったり、離人症的になったり、という形で現れました。

こう考えると、心も体も同じようなものだな、と思います。

悲しみを乗り越えるには

「喪の作業」をするのに、別に専門のカウンセラーが必ずしも必要、というわけではない、と私は考えています。ただ、「喪」について話す強さ良い聞き手は必要です。 

特に聞き手に関してですが、その人の感じる感情を否定せず傾聴し、エンパワメントしてくれるような人の存在はとても大きな助けになると思います。

勇気を出して話してみる;そして人に受け容れられられ、エンパワメントされていく中で、悲しみは癒されていくのではないでしょうか。そのためには、当事者側の「悲しみを感じる強さ・涙を流す強さ」も必要なんだと思います

<過去ログ>
「精神科医が見た被災地とこれから必要になるケア」を読んで

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